わたしはジェンダー・フリュイドです。・・・こんな告白は12年まえ、わたしの16歳の頃には到底不可能でした。わたしはそんな選択を知らなかったし、多くの人にとってもまったく馴染みのない概念だったでしょう。事実、わたし自身も性の選択について、まだどうしてよいのかまったくわかっていません。しかし、これだけはたしかなことのように思います。ーいま、もはや性は「選ぶ」ものであり、これからそれは当然のこととなってゆくのだ、ということは。
まだこうした考えに違和感を抱く人は多いかもしれません。まわりに性を「選んだ」人は少ないかもしれないし、まだ出会ったことがないかもしれません。「ゲイ」や「レズビアン」の友達はもしかしたらいるかもしれません。最近では「バイセクシャル」や「パンセクシャル」という言葉も一般的になってきました。レインボーの旗を学校や駅前でみかけたことがあるかもしれません。5月中旬に定められた「LGBT週間」はここ数年で日本でも徐々に定着してきているとききます。 今日、LGBTという言葉は、「LGBTQA」というさらに広い概念に置きかわりつつあります。ゲイやレズビアンといったセクシャリティーについてすら、議論されにくい日本の現状を考えると、概念だけが押し広げられるさまをみて困惑してしまっているふしがあるようにも思います。いっぽうでアメリカでは先日、ゲイ・コミュニティーとして利用されていたナイトクラブが襲撃され、多くの人に衝撃を与えました。議論がされにくいことも深刻ですが、同様に暴力が行使されることもまたいっそう深刻です。いかに「セックス(性別)に基づく男女関係」に基礎を置く社会が、ながいあいだ世界で一般的であったかを、こうした問題がものがたっています。 日本語では、まだ「ジェンダー」の訳語にあたるものでしっくりとくるものがあまり見当たりません。しかし、性別には2種類あるという考えは、少しずつ理解が深まっているのではないでしょうか?こんにち、個人的にそのことを理解しなければならない状況に直面するひとは、まだ少ないかもしれません。ー生まれながらの体つきや体内のホルモンの構成は、「セックス」とよばれる性別です。それに対して、もう一つの性別がある、という考え方が一般的になってきています。それは簡単に言えば、「心の性別」にあたるもので、そのことを「ジェンダー」と呼んでいます。もう少し正確に言えば、社会における「性的役割」です。 「性的役割」とはなんでしょうか?ーそのことは簡単に説明できない、とてもとても複雑な問題です。だからこそ、旧来の性観念との溝がいっこうに埋まらないのだとわたしは思っています。しかし、セックスと一致するジェンダーを持っていると自覚している人々が知っておくべきことは、 (もはやあたりまえのことかもしれませんが)、「ジェンダー」の観念をいったん受け入れたからといって、男性が男性の役割を放棄「しなければならない」わけでもなく、女性が女性の役割を放棄「しなければならない」わけでもない、ということです。男性が男性として、好きな女性と交際し、結婚することも、その逆であっても、それはひとつのパーソナリティとしてまったく問題のないことです。ただ「見取り図の取り方がかわった」というだけのことだといえば、そのとおりかもしれません。しかし、それによってわたしたちの生き方が大きく変わる可能性があるのも事実です。 *** わたしは、性別のなかで生きてゆくことが嫌いでした。それは、わたしがフェミニズムに関心の深い「意識の高い」存在だったからでも、恋愛が嫌いで、セックスが苦手だったからでもありません。わたしは、ちいさいころから男の子であることがとても好きでした。しかし、同時にとても嫌いでもありました。女の子になりたいといえば、なりたかったかもしれません。しかし、女の子になろうと努力したことはいちどもありません。 「女の子になる」というのは、どういうことでしょうか?ーわたしは、女の子というものをよく知りません。同時に男の子というものがなんなのか、それすらもよくわからないのです。わたしはこのことで、なにか社会的なメッセージを訴えたいのでもなく、政治的な主張をしたいというのでもありません。生理学的な明らかな特徴をのぞいて、わたしにはそれが何を意味するのかまったく答えることができませんでした。ただ、いくつかの不確かな統計学やそれに類する噂を知っているのみです。そしてそれはいまだなお難問です。ジェンダーという概念を取り入れてもなお、「男らしさ」「女らしさ」は、漠然とながら存在していることに、われわれは目を背けることはできません。 わたしのことを振り返るにあたって、ジェンダー・フリュイドという性を選択する見かけ上の理由はいくつか存在します。たとえば、わたしの身長がとても低いこと、わたしの肌がとても白いこと、わたしのからだつきががっしりとした、たくましいからだつきになりにくいといったことです。わたしはそのことで、いわゆる漠然とした意味での「男らしさ」を兼ね備えていないと思われ、そのような印象で見られつづけてきたことをはっきり知っています。それは具体的な言葉になりませんが、なにというか、「肌から吸収され心臓と腸で理解されるような」、とても直感的で複雑な感覚としてつよく感じつづけてきたのです。 わたしはそうした反応の結果をつねに内面化して過ごしてきました。そしてつい最近まで、そのことを意識することすらほとんどできなかったのです。わたしはそのことで、16歳のころから何度も心を病んでしまいました。さまざまな病院を受診しましたが、まったく納得のゆく答えは得られず、とてもつらい思いをしました。その原因はいまでさえはっきりとはわかりませんが、今年の4月、大きな大学病院での検査入院をへて、ようやくジェンダー・フリュイドという考え方にたどりつきました。・・・実は、その検査結果によってわかったというのではないのです。入院中の退屈しのぎに読んでいた、ヴォーグや、ハーパース・バザーといったファッション雑誌が、とてもわたしを勇気付けてくれました。 わたしはいつも、ファッションはとても保守的なジャンルだと思っています。「性」という概念を軸に、「男らしさ」と「女らしさ」のもっとも極端な美学を追求するのが、ファッションといういとなみです。素っ裸の露骨な「ポルノグラフィー」を、「被服」という文化的なもので「よそおわせる」ことによって、それを社会的に位置付けることがファッションの仕事だともいえます。それゆえにファッションはむかしから、国会や市役所、オフィス、テレビ番組や、町の集会といった、もっとも公共的な空間においてすら、しばしば感情的に受け止められ、非論理的な論争が繰り広げられつづけてきました。 しかし、そうした人間にとってもっとも「センシティブ」な問題につねに向き合いつづけてきただけに、ファッションは「ジェンダー」についてもいちはやく向き合わざるを得なかったのではないでしょうか。現代のファッション雑誌の歴史は、おおむね19世紀末の「ヴォーグ」や「ハーパース・バザー」といった雑誌の創刊にさかのぼりますが、その当初から彼らは「保守を装った革新派」だったのではないかとわたしは思っています。というのも、「衣服」はいつも「心」に追いついてゆけないからです。それでもなお、衣服は人間の心を追いかけつづけているのです。ーわたしはそう信じています。 「男らしさ」と「女らしさ」を超えたファッションは可能でしょうか?ーそう考えることは、すなわち、わたしの先ほどの疑問に立ち戻ることを意味します。ー「男の子とは、女の子とは何なのか?」ーやはり、わたしにとってこれは相当な難問です。生物学や生理学、社会学や統計学のあらゆる結果をもってしても、到底すぐに答えの出るものではありません。だからといって、「男の子も女の子も、そんなものないことにしよう!」なんていう能天気なことを、少なくともファッショニスタたちは言うべきではないでしょう。 たとえそうであったとしても、2016に生きるわたしたち、そしてその先に生きる人々にとっては、こう考えることは可能なのです。ー「わたしは、性『別』を捨て、ただ『性』というものを受け入れる」のだと。ここではあえて、このように言いましょう。なぜなら、わたしたちが選ぶことができるのはメール/フィメールという「性別」ではなく、分け隔てなくひろがっている、さまざまな「性」だからです。 「男性でも女性でもない」ということは、わたしにとってはとても楽で自然な考え方です。そのように思える人は、実はけして少なくはないのではないでしょうか?そのことを受け入れることによって、それ自体によって失うものは、なにひとつありません。たとえあるとしたら、とってもつまらない些細なことです。ただ「見取り図を変えただけで」うろたえる人たちの声に耳をかたむけてはいけません。そのひとたちはちっともあなたの人生をよくなどしてくれません。ーたとえ天動説が地動説に変わったからといって、わたしたちは依然として「ここ」にいつづけるのです。
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