神戸の、元町のファッション街を散策してきました。ミニマル・シックな装いがいよいよ店頭に並びだし、世の中は取り澄ましたおとなっぽいひとたちが群がり始めています。3年ほどまえの、きゃりーぱみゅぱみゅのような、ガーリーでシュガーポップなひとたちの存在がまるで嘘のようです。わたしは2年ほどまえから、京都のロリータに近いテイストのひとたちの集まりによく参加してきました。教養もあり、センスも良い、少しふしぎなひとたちです。その集まりには、流行といった軽はずみな根無し草はけして顔を出すことはありません。みな自分のテイストに大きな信頼を寄せているのです。・・・しかしそこには流行の上澄みはあります。流行の上澄みというのは、ひょっとしたらより流行の本質にちかい部分かもしれません。だってそれは必要なものだけがかなりの純度でぎゅっと凝縮されてそこにあるわけですから。−出会ったころの2年まえ。わたしは、当時経営していたカフェで、パーティを開いたのをおぼえています。 あのころは、みんなとってもふわふわと甘い香りを漂わせていました。そして、それを締めているのは、いつもキッチュでポップなかわいらしい毒々しさ、といった具合でした。シックな装いも、たいていは明るくてやさしい色合いのベースのうえにおこなわれていました。シックとはスィートなもののアクセントだったのです。ギラギラとかがやくものは、あまりなかった。みんな、キラキラすることに憧れていたのでしょう。ーシャンパンゴールドのような、ふわっとした輝きにね。 2016年秋のファッション・ストリートを闊歩していると、みんなしきりにませた子供のような装いをするようになってきたという気がします。そういえば日本では、そういうのはここしばらくアンダーグラウンドな世界で人気を保っていたようですけれど、いまようやくマジョリティを獲得しつつあるのでしょうか。ーサブカルチャーといえば、オタク好きのするアニメや美少女みたいな時代がながらく続いてきましたが、気がつけばそんな考えはもう随分と古く感じられるようになりました。ファイン・アートの作品の定番のテーマになっているし、それどころか政府が「クールジャパン」と銘打って海外に売り込みをかけようという時代になっているわけですから。そろそろこの厄介なことばの定義をもういちど考えなければなりません。 いずれにしても、もうアニメの美少女はとっくのむかしから「あかるかった」のです。そして、このファッショナブルな「ミニマルシックな」エッジーな人たちこそ、いま地下から這い出てきて、明るくもよわいこの秋の太陽光のもとにさらされ、目をくらましかけているのです。 最近のトレンドのキーワードとしてのぼっている、80年代〜90年代前半の時代というのは、いいかえれば日本でのいわゆる「新人類」たちがクリエイションをする時代ということになります。最近わたしがとっても驚いていること、それは、「ファンク」という概念や音楽が世界的に再評価されていること、そして、そのなかでもとりわけ日本の「新人類」たちのクリエイションが、とても高く評価されているということです。個人的なことをいえば、わたしは日本の「ファンク」ミュージックについて、ほとんど外国のファンから教わっています。そして、そのたびに当時の日本の音楽の輝きとパワー、そして同時にその不気味さを再発見することになります。 ロックフェラーセンターをはじめとして、マンハッタンの「大部分」を占拠した80年代の大国「日本」。あの頃の日本は、パワースーツよろしく、すべてにおいてパワーに満ち溢れていたのかもしれません。 バーニーズ・ニューヨークで、ソフトジャケットとカジュアルなドレスシャツに目がとまりました。最近少しずつ人気の高まっているキャメル色のとなりで、今年の色「ボルドーワインのレッド」が異様な存在感を放っています。ーあれは異様。・・・とっても異様な美しさ。・・・巨大な肩パットの入ったダブルブレステッドのスーツを着た玉置浩二が、真夜中の高層ホテルの一室で、「ワインレッドの心」をかなしそうに歌っています。 今年の秋の夜は、せつない虫の啼き音よりも、ボルドーワインがみせる幻想のメランコリーに浸りながら、地上を這うヘッドライトの無数のまたたきにさまざまな「過去」をみるべきなのです。 ©Erte
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