はじめまして。ヨシダマワです。 ファッション・ライターをめざしています。 昔から、ファッションが好きで、かくことが好きで、ひと一倍こだわりをもって、よそおうこと、かくことにちからをいれてきました。すこし変わった性格なものですから、よそおいかたも、かくものも、まわりの友達やトレンドからはだいぶ離れたところにいつづけてきました。そのなかで、「ファッションってなんだろう」「トレンドってなんだろう」「ふつうの趣味ってなんだろう」という疑問につねに直面しつづけてきました。そんなせいか、おかげさまでファッションのことを一生懸命かんがえるようになりました。 "How To Be Parisian"「パリジェンヌのつくりかた」という本が世界的にブームになっていますが、ファッションモデル、カロリーヌ・ド・メグレをはじめとするこの本の著者たち、つまりはパリジェンヌの代表者たちは、いかにもファッションに「一生懸命にみえないように」一生懸命つとめているかのようです。そして、「ファッションに一生懸命じゃないようにみせるのは、とっても大変なことなのよ!」と「たねあかし」をすることが、それ自体ファッショナブルなことだと彼女たちは考えているようです。 こうした美学は、たとえテイストがちがっていたとしても、パリジャンたちに限らずほとんどすべてのファッショニスタたちがいちどは経験したことのある、定番のスタンスであり、また悩みでもあるでしょう。ファッショニスタたちの心理はとっても複雑です。わたしたちはこれだけ複雑にファッション・ゲームを繰り返さなければならないというのに、VOGUE編集長のアナ・ウィンターは「Do as yourself(あなた自身としてふるまいなさい)」と自信をもって読者たちにアドバイスします。 ファッションという言葉が苦手なひとたちにとっては、まるでなにかの試練みたいに思えてくるでしょうね。ーもちろんわたしだって、さっぱりわけがわからなくなってしまいます。ファッションの世界は矛盾だらけ。この世界にふかくのめりこんでゆくというのは、メタファーではなく文字通りの意味で、「試練」だといえるでしょう。それは哲学や心理学の難問に立ち向かってゆくのと同じくらいひろく、ふかい世界だとわたしは思っています。 というのも、「あなた自身としてふるまう」という言葉自体が、まるで預言者から与えられたなぞなぞかなにかのように、とても漠然としていて、同時にかぎりなく深い意味を持つ言葉だからです。もちろんそれは「好き勝手にふるまう」という意味でもなければ、「自分がよいと思うようにふるまう」という意味でもありません。そうなるともはや、それは「よそおう」ことではなくなってしまうからです。ファッションが「よそおう」ことだと定義するとすれば、よそおうことを放棄してしまえば、もう永遠にファッションの世界に立ち戻ることはできなくなってしまうでしょう。 日本には黒柳徹子さんというテレビ司会者の女性がいらっしゃいますが、わたしは彼女のファッションをとても素敵だと思っています。現在82歳であるという彼女は、若いころから一貫して「たまねぎあたま」とよばれている大きくもりあげた髪型と、はっきりとしたメイクアップ、そして「2度とおなじ衣装を着て出演しない」とよばれるほど豊富なワードローブにこだわりをもちつづけ、つねにまわりの出演者から大きく際立って特異な存在感を放っていらっしゃいます。 黒柳さんが幼少のころから一風変わった、個性的なパーソナリティの持ち主であったことはよく知られていますが、わたしたちは彼女の個性の魅力をテレビ番組に出演する彼女の衣装や、話し方、ふるまいなどからはっきりとしることができます。ー彼女のファッションは、まさに彼女のパーソナリティそのもの。パーソナリティなしによそおう、つまりは「ただ演じる」なんてことは、人間にはとてもできません。かりにそんなことをできる人がいたとしても、そんなよそおいはナンセンスだし、そればかりでなくその人を不幸にさえしてしまうでしょう。わたしたちが文字どおりの意味で「ただよそおっている」だけのときには、そのひとは「自分らしさ」、すなわちパーソナリティのすべてを犠牲にしなければならないのです。 いま、世界のファッション雑誌がこぞって「Diversity(多様性)」について取り上げています。カタカナで発音すれば「ダイバーシティ」と読みますが、「あらゆるパーソナリティーの人々が、それぞれ自分自身としてふるまっている」すがたを伝えよう、というのが21世紀的なファッション・ジャーナリズムのありかたであり理想となりつつあるようです。 とくに話題になっているのは、LGBTQAという言葉が代表している、「ジェンダー」と「セクシャリティ」のありかたです。ジョニー・デップの娘、リリー・ロッズ・デップがジェンダー・フリュイドをカミングアウトし、カーラ・デルヴィーニュはバイセクシャルを告白しました。カーダシアン一家の継父で、オリンピック選手としても活躍したブルース・ジェンナーはトランスジェンダーとして生きることを決意、名前をケイトリンと公式に改めました。また、カーラはうつ病と闘っていたことを先日明かし、それをきっかけに女優として自分を表現することに力を入れてゆく決断をした、と伝えられています。 こうした社会的な問題や、セレブリティのプライベートな悩みが、VOGUEやELLEのような「ファッション」雑誌で毎日報道されつづけているのをみて、「これがファッションと何の関係があるのか?」と疑問を持っているひともひょっとしたらいるかもしれません。ひとつひとつの報道のされ方には、私自身いろいろと感じることはあるのですが、ファッションと社会のかかわり、そしてその社会の先にあるそれぞれの「インディヴィジュアル(個人)」にまで、ファッション・ジャーナリズムが触れようとしていることについて、わたしは「これこそがファッションだ!」と強く思うことがあります。しあわせになるために悩み、自分と、社会と闘っている、その行為こそがファッションだといえるからです。 話はもどりますが、「あなた自身としてふるまえ」というなぞなぞはいつ解けるのでしょうか?ーその答えが完全に解けたときにはファッションはもう完成しているでしょう。そして、そんなときはわたしたちの人生の終わりまで、永遠にこないのです。 ヨシダマワ 吉田磨和 1988年生 兵庫県西宮市在住
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