ハイ・ファッション=「ブランド」「モード」や「クラス」をとりわけ重視するファッションとでも言おうか?ーこのよくわからない、ファッションの一属性についての9つの考察。
キーワードは、「経済学」と「心理学」。 1ハイ・ファッションは「敷居」が高いからハイ・ファッションとよばれる。 ハイ・ファッションなものはたしかに質が高い。しかし、それとおなじくらい価格が高く、意識が高く、気位まで高い。ランウェイを歩くモデルは背まで高い。とにかくハイファッションは「敷居が高い」ゆえにそのように呼ばれている。内外からそれとなく聞こえる、「バカと煙は高いところへ昇る」という揶揄も無理のない話かもしれない。 「高さ」を競うという点では、(マンハッタンの摩天楼のように)きわめて20世紀的な、モダンなジャンルだ。そしてちょうどマンハッタンの摩天楼がそうであるように「高さ」と「経済」はほぼ同義語といってよいくらいに密接にシンクロしている。欲望はかねてより高いところにあるものなのだ。・・・冗談はともかくも、(ハイ・)ファッションと経済とのかかわりは、ファッションと芸術とのかかわりにもまして深い。 2関わりの深いふたつのジャンル。 ーファッションと経済 ファッションと経済の関わりが深いのは、ファッションと経済学がともに似たところを持っているからだ、と私は考える。まず、どちらも科学からもっとも遠いところにある分野であり、つぎに心理学的な概念に依る部分がとても大きい。たとえば集団意識といったような概念がそれだ。行動経済学では、集団意識の研究をとおして個々の消費や購買の現象をミクロな視点から観察するけれど、それはファッションの分析(トレンドの分析などといった)と非常に類似しているといえる。 わたしがここで言いたいのは、ファッションと経済学の関連性が、「両者がともに、自然科学的『真理』にではなく、心理学的な『不確実性』のたえざる観察と分析によっている」というところにあり、けして「自由な『市場』で洋服や化粧品などといった消費財が、人々の欲望を刺激し続けながら派手に売りさばかれている」ということではない。「経済がファッションを制している」のではなく、分野として「経済がファッションと似ている」のだ。 3ファッションには、気持ちや意志の作用がつねにはたらいている。 ーファッション心理学 おもしろいのが、ファッション雑誌はいつも「人の心に働きかけて」「その人をやる気にさせる」手法だけに特化して紙面を構成している点だ。「自由な気持ち」や「意志」が万能である、という修辞上の魔法を誰よりも巧みに使い、人々を「わたくしの人生の=世界全体の」主人公だと感じさせることで購買意欲を刺激する。それがファッション雑誌の王道的な紙面作りである。その結果、紙面はいつも個人主義的で、インデペンデント志向(自立・独立志向)な感じに仕上がる。 そうしたファッション雑誌にみられる特徴は、ファッション産業独特の広告手法としてたんに修辞上の特徴にとどまるのか、それともそれを超えた何かなのかは、なお疑問が残る。というのも、自由、あるいは自由意志の賞賛や、それに伴った独立志向といったものは、ハイ・ファッションにはもはやなくてはならないセットの概念のようなもので、それなしには考えられないほど強固に結びついているように思われるからだ。わたしは、後者のみかたを支持する。つまり、ハイ・ファッションはハイ・ファッション独自の心理的機構(システム)を備えており、それなしに考えることはできない、とわたしは考えている。その機構の原理をひとことで言えば、「自由な気持ちや意志は、すべてをかえる魔法」というものだ。 4ハイファッションー特権的財の代表格。 経済学の用語で「特権的財」というものがある。ある商品が、「それがごく一部のとりわけ裕福な人たちにしかゆきわたらない」という理由によって、たちどころに価値が倍増する種類の消費財のことを指す。アート作品や、エリート教育などといったものが代表的であるが、おわかりのように、なによりもこの例にかなっているのはブランド志向のハイ・ファッションとよばれる商品である。こうした商品は「エクスクルージブネス」(排他的=特権的)というワードを惜しげもなくみずからに付与し、「特権的財」として堂々と売られる。 ハイ・ファッションの心理学のようなものがあるとするなら、それはいうまでもなく個々の製品の「特権的財」としての妥当性を人々に納得してもらうためにつくりあげられたシステムと関連しているであろうし、また同時にハイ・ファッション業界そのものの排他性を権威づけるための機構でもあることは想像に難くない。 5ハイファッションがポジ写真なら、ストリートファッションはネガ写真。 ハイ・ファッションは特権的財としての妥当性を説得させる独自の心理学的な機構を持ち合わせているが、それとはまったく対極的な場所に、きわめて類似した機構によって成り立っているファッションのジャンルが存在する。すなわち、ストリートファッションがそれだ。本来、ストリートファッションは、市場において非-特権的であるものの集合体であるが、そのことが特別に意識され、一般に認知されることによって、逆に特権的財と同等の付加価値をもつ可能性がある。そのことは、たとえばフランス革命やロシア革命などの市民革命において、「労働者」が「非特権階級」であるというまさにそのことによって、対極の特権階級と同等の、あるいはそれ以上の価値をもちうることと類似している。その場合、ストリートファッションは、「非- 特権的」であるというまさにそのことによって「特権的」なのだといえる。つまり、ネガとポジが逆転しているのだ。 6写真はネガからポジになる。 ーハイ・ファッションの「搾取」 にわとりが先か、卵が先かの論争を避けるためにも、この問題は直感的な自説を展開するにとどめる。 マルクスは、土台となる下部構造をなくしては、上部構造はそれだけで存立することはできないと主張した。ちょうどフィルム写真はネガなしには存在しえないようにである。それゆえ、有史以来、ストリートファッションはつねにハイ・ファッションによって剽窃され、もうすこしマシな言いかたをすれば、吸収されていると考えるのは自然である。少なくともこんにちでは、ジーンズ、ジャージーといった素材はハイ・ファッションへと(いまだに)日一刻と吸い上げられつづけており、100年前にはツイードやジャガード織りといったものについて同じことが起きていた。素材だけではない。たとえば音楽のロックが下から上へと昇格し、ヒップホップが下から上へと昇格したように、思想、テイスト、ライフスタイルもまた、下から上へと吸い上げられ、特権的財として高値で取引されることになる。 しかし、もちろん逆の現象が同時に起きているということも看過できない事実だ。たとえば「紳士淑女」という言葉の用法は、上から下へと段々と降ってきて、万人のものとなった。1960年代にもなると、労働者階級のトイレにも「紳士用」「淑女用」の文字が用いられるようになったのだ。イギリス王妃が身につけたものは巷でコピーされて流行するし、スーツ(ラウンジコート)は中流階級をはじめとする万人の仕事着となり、またストリートの普段着のテイストに付け加えられた。 そうした現象を考慮するにしても、ネガがなくてはポジはできないというのは当然の理であるとわたしは信じる。つまり流行はつねに下から上へと吸い上げられているのだ。 7ファッション雑誌は広告出版物か、あるいは言論出版物か。 わたしは、ファッション雑誌が、「ファッション批評」なのか「ファッション広告」なのか、ながらく悩み続けてきた。もちろん、答えは後者である。ファッションが批評にたえるような代物であったことは、一度たりともない。しかし同時に、ファッション雑誌が、それと同時に「思想誌」である、ということは十分に可能だと思うし、またほとんどのすべてのハイファッション誌は現にそのような機能を果たしている。ファッション雑誌が一般の思想誌と異なる点は、少なくとも一点ある。つまり、一般の思想誌が主張の結論部分に具体的な製品を提示しないのに対し、ファッション雑誌は主張の終着点になんらかの製品(あるいはライフスタイル)を提示して締めくくる、という点である。 それが可能なのは、(ハイファッションの)ファッション雑誌が提示する商品は、かりに商品価値が剥奪されたとしても、芸術作品に類する独立した価値があるという読者の信頼があるからである。商品の文化的な信頼性が、ファッション雑誌を言論出版物たらしめる要素の一端を担っているように思われる。「ファッション雑誌によって切り取られた」ファッションは、単にビジネスではなく、言論であり、思想なのだという了解が、無意識のうちに人々のあいだに形成されているのではないか。 8「何が売れるか?」ではなく「何が創れるか?」 ーファッション経済学の「生産的側面」に着目してみる。 一般にファッションの話は受け身になりやすい。言い換えれば、生産者サイドより、消費者サイドに偏った見方がされやすいということだ。ファッション従事者の大多数は、小売業の販売職をしている人たちだろうから、それも無理もない話である。また、いままでのながいあいだ、ファッションに限らず他の多くの分野でも「何が売れるのか?」「どうしたら売れるのか?」という消費者側の気持ちを慮ることばかりに注力してきたきらいがある。 かといって、「ファッションデザイナーは、芸術家だ」あるいは現代風に「クリエイターだ」と考えているひとたちは、ともすると「つくること」にばかり偏った意見を展開しがちな向きもあるが、これもまた少し話がちがうようだ。なぜなら(少なくともファッションにおいては)「つくること」の目的として、「着られること」「みにつけられること」が含まれないようなことは、おおよそありえないからだ。 ファッションが「ウケなくていい」ということは絶対にない。しかし、ファッションがウケるというのは消費者の表面的なニーズを叶えさえすればいい、というような単純なことではない。その点でまさにファッションは、「芸術的」なのだ。 9「ファッションで何が創れるか?」答えは「心理学」が握っているかもしれない。 ー神様の心理の、よき理解者となる。 ファッションは「需要と供給」というような単純な関係性から可能性を探ることのできるほど、シンプルなジャンルではない。いっぽうで、ファッションが純粋な芸術で、どんな複雑な人間的心情も暴露できる分野だとは考えにくい。どちらかというとファッションは、人生における政治的な駆け引きで、成功のためにおこなわれる社会との交渉のような性格を帯びている。社会に順応し、なお存在感を際立たせ、さらに人々を魅了し牽引するエネルギーを発することこそ、ファッションの「純然たる」目的だ。それゆえに、ファッションは大嫌いでもやることは可能で、むしろ大嫌いだからこそ熱を帯びてくるジャンルだと、斜に構えてみることもできるし、そのほうがかえって的を得た正論となるだろう。 人間が日頃こっそりと心の奥底にしまっている「あまのじゃくな心理」。その、深く、またよき理解者こそ、ファッションを制するといえる。ファッショニスタとは、思いのままに世界を支配したがる、きわめて人間味あふれる「神格」なのだ。その点で、ファッションは神話的であり、ときに啓示的でもある。こっそりと、そして同時に公然と世界の頂点に輝くための方法を耳元でささやくことのできたものこそ、ファッション生産者の覇者なのである。
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