わたしは白という色が大嫌いだ。ほんものの白、純白の白。純白という言葉はそれ自体狂気じみているし、そこにはまだ見ぬ紅い血の色が仄めかされている。ファッションはよそおうことだということだと分かっていれば、あなたが純白の白を着るとき、あなたは純白を「装って」いるのだということを忘れてはいけない。ーたいてい、理念を表す色というのは気持ちが悪い。共産党の赤とか、アナーキズムの黒とか、ね。はっきり言って、LGBTのレインボーだってわたしは嫌い。理念の象徴というものは、包み隠されていることに意味があるのだ。だから、理念の色を着るなんてことは、なんのよそおいにもならない。よそおうということはたいてい包み隠すことだから、理念はまた別の理念で包み隠してしまってこそ意味があるというものだろう。その理念はまたなにか別のもので包み隠されて、それがまた包み隠されて・・・・永遠にその繰り返し。人間は、ただ裸を包み隠すために、服を着てよそおっているのではない。むしろ裸などは晒してしまって、なにかもっと別のものを包み隠すべきなのだ。いったいなにを?ーたとえば、よそおうことを包み隠すというのはどうだろう。全く理にかなっているよね。よそおうことを包み隠してしまえば、ひとは裸になる。Be Yourself とはよく言ったものだね。それは「よそおわれた裸」なのだ。
「よそおわれた裸」というものはたいてい美しい。シェービングという行為は、まさに裸をよそおう行為だし、下着をつけるという行為も裸をよそおうことにほかならない。タトゥーだってそう。ーわたしたちはそれをもっと根本的に考えた末に、現代的肉体改造、あるいはもっとべつの言葉でいえば「フィットネス」という発明を思いついたんだ。ある人々がいう、「もうわたしたち、これ以上裸になんてなれないわ!だってわたしたちはもうすべてが裸で、着飾りすぎて、重くて、重くて仕方がないんだもの」ファッションの神は、こんどはメンタリティーの問題を持ち出して、わたしたちにそれをすすめる。ー「Be Yourself.」、「自分自身でいいんだよ」。ファッションの進歩は人間をどんどん追い詰めて、われわれは逃げ場をなくす。しかし同時に、わたしたち人間は馬鹿だから、過去のことをだいたい忘れてしまう。「ファッションは繰り返す」なんてことは、人間という愚かな馬鹿ないきものを、神と対比させて説明しただけの卑屈な言い訳にすぎない。でもそんな泣き言でも言わなきゃ、わたしたちは過剰な装身具で押しつぶされてしまうだろうね。ファッションにかかわるとき、わたしたちはいつも苦しいのだ。 「よそおわない裸がすきだ」、とまた別のひとびとがいう。これはいっそうたちがわるい。ーだって、裸をよそおわないなんて、どんなけ苦しいことか、まったくわかっていないんだもの。ジャン・ポール・サルトルばりに、ためしに全部球根の皮をむいてみるべきだ。かれらはただ自傷行為をしている。つまりは、彼らはけっきょく皮相的なファッションしかできない。よそおわないのではなく、下手によそおうことしかできないのだ。もしよそおわないことをよそおうのであれば、それなりの覚悟がいる。ーもちろんその覚悟は誰にでも必要だけれど。わからなかったら、それはパリジャンに聞くべきだよね。まさにかれらの得意分野だ。ーだがもちろんそれがいささか危険な行為だということくらいは知らなければならない。少なくとも、「よそおわない裸がすき!」だなんて下手なことを真面目にいうべきじゃない。だってそれは立派なよそおいなんだから。 つまり、わたしが言いたいことは、真剣な人になんかなっちゃいけない、ということ。真剣にならないことに真剣な人こそ、本当に信頼できる人だ。・・・だから、陽気なアルコホリックっていうのは罪な人ではないよね。「さあ、神様が僕に飲めって言ってるんだ!本当は飲みたくなんかないよ。飲まないときっと幸せだろうなあ。ーでも、飲まなきゃいけないんだ!これは神様の命令。そしてそれは、神様のお導きでもあるんだよ。飲むと幸せになる。いや、幸せにならなきゃいけない。だからさあ、飲もう!こんな僕はなんて幸せなんだ!」ーこうして、その人は飲み続ける限り、幸せを謳歌するんだ。大事なことは、真剣になることに真剣にならないこと。そんなことをしてしまったら、せっかく真剣なのに、真剣が台無しになってしまう。ちっとも真剣じゃない。それは不幸なことだよ。この世で最も不幸なことは、真剣になることに真剣になろうとすることだ。守らなくていいものを守るなんてことは、無駄なばかりじゃなくて、立派な罪だ。ほんとうにあわれであわれで仕方のないこと。ーだって、それはもうすでに守られているんだから。 守られていないものを守るからこそ意味がある。それはとっても無防備だから、守らなければならない。ーたとえば、裏通りや、夜といったものだ。つまり、魅力的なもののすべて。わたしたちは、表と裏の両方に生きていて、昼と夜の両方に生きている。片方だけというわけにはいかない。もちろんこうしたものはつねに危険で、ぜったいに守られない。でも、守らなければきっとわたしたちは生きていけない。でも、どうやって?ーふたつの考え方があるよね。ひとつは、裏通りや夜をなにかの魔法で昼にみせかけてごまかすこと。これはつまりは「逃げる」ということだ。ー摩天楼のネオンサインを悪魔の誘惑かなにかのように考えている人がいるのだとしたら、それは大きな見当違いだ。あれは、夜の本性を隠すごまかしで、人を危険から守るためにやっていることなのだ。人はむしろ、ネオンサインの隙間に宿る夜の闇のほうに誘惑される。この闇がなくなったら、わたしたちにはもう守るべきものはなにもないことになるだろう。 もうひとつは、裏通りや夜に繰り出して、立ち向かうことだ。これはとても孤独な闘いだ。しかし、やってみる価値は十分にある。ひとりで闘うぶん、勝ったときのよろこびもひとしお。そして日中に権威を振るっている暴君どもに凱歌をあげることだってできる。ー昼の神様は、夜の神様はふしだらで信用できないとささやく。ーでも、一日はひとしく昼と夜とに分けられているのだから、そんな身勝手ないいがかりにだまされてはだめ。昼の神様の言い分は通りやすいけど、そのとおりにしていては幸せになれないということを、知らなければいけないんだ。ーだからこそ真剣にならないことに真剣にならないといけない。世の中はちっとも単純じゃないからね。われわれは神々のいがみ合いに付き合わされているだけなんだ。 話が逸れてしまったから、戻さなきゃいけない。ー白という色は、本来はとてもいい色なんだ。白は不在なんかじゃない。ほんとうはむかし、堂々と存在していたはずのすばらしい色なんだと思う。でも、昼の神様があまりにも白をいいように使って、夜の神様の悪口にしきりに用いるものだから、すっかり信用できなくなってしまった。・・・ほんとうにかわいそうな色だと思わない?あまりにもピュアな白はまんまとだまされて、憎まれ役になってしまったというわけだ。偽善の白。おもわせぶりな白。嘘つきの白。「白い目で見る」なんて言葉はなかなか象徴的だ。ーしかし、こいつがよそおうということをいったんはじめだしたら、どうしてこうも急に色っぽくなるのだろう?ーわたしは、ベージュという色が大好き。ベージュはおとなびている。もともと白だったベージュは、泥や、汚れや、宗教の言葉で言えば「穢れ」のようなものに救いを求めたのだ。夜の神は、それを「成熟」と呼んで賞めたたえる。自分たちが人間どもに与えた試練をうまくかわして、自分を守ることに成功したのだから。ー社会は純潔を美化したりしてはいけない。むしろ、成熟をこそ美化すべきなのだ。ー結婚式とか葬式とか、会社とか学校へは、ぜったいに白を着てゆくべきではないとわたしは思っている。なぜなら、そこは真剣な場所だからね。真剣な場所へ白を着てゆくなんて、とんだお笑いぐさだ。あれを考えたひとたちはいったいなんて不真面目なんだろう。守られている昼の秩序のなかで、かれらはさらに人間に「守りぬく」ことを強いるのだ。誰のために?ーそれは少なくとも人間自身のためにではない。「不在」の烙印を押されたものに神聖さを見出す文化なんて、まるで不幸を賛美するもうひとつの「闇」の文化みたいじゃないか。わたしは白が嫌いだ。はっきりとした「色」を愛すことのほうがずっと健康なのだ。
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