私の母方の家系の者は、概して指が醜い。私の母はマニキュアをした自分の手の写真を私に撮らせる時には、幾分神経質になる。私は10枚もの写真を連写して撮る。そしていちばんいいのを選んで、フェイスブックにあげるよう勧める。このあいだ夕食の時に、彼女が一枚の写真を私に見せた。「どう?この写真はとっても綺麗に私の手が写ってると思わない?まるで私の手じゃないみたい」。写真はいつでも人間の真実の虚像である。
私もその血筋をひいてソーセージのような指をしている。ドイツには、「ブルストフィンガー」という言葉がある。ソーセージのような指という意味の言葉だ。人間というのはたとえどこの国であっても、自分たちの主食にいつもケチをつけるものだ。おとぎの国の食事にあこがれる乙女と青年の時代には、日本人は米に相撲取りを連想し、ドイツ人はソーセージに太った指を連想する癖を身につける。いつか王女様とプリンスが食べる世にも美しい氷菓子だけを口にすることができたなら・・・。それは桃色と水色でできていて、脚のついた薄みどりのガラスの食器で供される。白鳥の飾りのある銀のスプーンは王女様の指をかたどったかのようにすらりと細い。そうだ、私がもしこのスプーンのような指であったなら・・・。 ジャン・コクトーの指はまるでおとぎ話のモチーフのように綺麗だ。彼がもしブルストフィンガーであったなら、あんなエレガントな明るい色のスーツは似合わなかっただろう。そして一生チョークを持って作品を生み出す自らの指の写真を隠し続けていただろう。彼の容貌の自信は、つねにあのすらりとした指に発している。なぜなら彼は芸術家だからだ。芸術家の指は、その人生にあってもそうでなければならないように、器用でなければならない。器用さには、悠然とした風格が漂う。無駄な重みがなく、機能的で、しなやか。ミニマルな指は、ミニマルな人間像を描き出す。それはシックで、エレガントだ。 私は他の誰にも負けたことがない小さくて太い指のおかげで、現実的なたくさんの不自由を体験してきた。ピアノの鍵盤にどうしても手が届かなかった子どもの頃。アルバイトをしていたフレンチレストランでコースの皿を3人分しか持てなかった10代の頃。手の小ささは自分のあらゆる部位のミニチュアであることを物語っていて、その視点までもがミニチュアな世界にあるという連想から逃れられない20代の頃。・・・手の小ささで得をしたことはない。しかもその手が太くて短いときた。手は人間の一番の道具だというのに。ろくでもない道具を持ち合わせたものだ。 ダイアナ・ヴリーランドはマニキュアを誰よりも愛した。そして女の指の先端の秘密を握るマニキュア師たちを。パリではマニキュア師を頻繁に部屋に招いて、自分だけのための特別なマニキュアを塗らせていた。イギリス王室に仕えたマニキュア師との会話は彼女にとってかけがえのないものであった。戦後、パリの旅行からニューヨークへ戻ったとき、ダイアナはまず最初に昔懐かしいマニキュア師の男を一番に探しだした。彼女はその後、足の爪のマニキュアを人々にしきりに勧めるようになる。ー「スタイルを持つ女性にとって最も大切なみだしなみは何?・・・それはマニキュアよ。とくに足の指のマニキュア」 ・・・足の指のことなんていったい誰が気にかけるのだろう?いつもハイヒールに隠されて、人前で誰の目に触れることもない足の指のマニキュア。恋人の男だって、いちばん気にかけそうにもない足の指のマニキュア。ダイアナはその足の指のマニキュアに人一倍こだわりを持った。ー「足の指のマニキュアをきちんと毎日大切にする人は、自然と背筋が伸び、自信に満ちた面持ちで颯爽と歩くようになるものだわ」。 ーファッションとは完璧でない自然の人間のありさまを、希望に満ち溢れた信念と、喜びに満ち溢れた努力によって完璧に見せることだ。それは写真と同じく、人間の真実の虚像である。しかし、その虚像と実像のほんのわずかな違いは、まさに人間の強い美への憧れと意志でなければ、いったいなんだというのか。ファッションの世界では、フォトジェニーは意志によって埋めるべき表面の隙間のうちに宿るのだ。私はそう信じている。 母と私はながらく、時間にも経済にも、そしてなにより精神のうちにも十分な余裕がなかった。20歳離れた両親が結婚してから30年、父はもともと自由のきかないからだと、老化で衰えてゆく自らの脳を持て余していた。2年前亡くなったとき、彼は87歳だった。私はとても早い時期に、人間の老いを直視する宿命にあった。それはとても辛くて、恐いことだった。ーひとりの人間がフェードアウトしてゆく時間を残されるものたちが共有するということは。その彼の指は長くて、美しい繊細な指であった。 私達二人はその美しい指が記憶に刻印され、封印されたとき、自分たちの世界へ立ち返った。それはかわききった指先のような、わびしい現実であった。ー何を思ったのか。ある日、実家へ帰ると母のブルストフィンガー、私にとってもうひとつのブルストフィンガーの指先がなんともいいがたい夢見心地の薄緑色ーそうだ、それはまるでヴァレンチノのドレスのようなー上品な光沢のある薄緑色のマニキュアを纏っていたのだった。皮膚の表面に覗いていた心の隙間が、魔法のラッカーによって美しく補修されていた。フォトジェニックだ。なぜならそれは人々に希望を与えるから。・・・少なくともこの私には。 男の指の意味するものとはなんだろう?人間にとっての指が意味するものとは?いずれにしても、道具は磨いてこそ価値のでるものだ。そしてこの指を磨くことを怠ることなど到底できるわけがない。こうしていまもキーボードの上を飛び跳ねている指である。 ブルストフィンガーを肉屋の包丁で叩き切る夢だけは、見るべきではない。
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