今年、2016年のA/Wコレクションは、どこのブランドを見てもいままでに見たことのないほどに「シック」だ。成熟していて、アヴァンギャルドで、そしてミニマル。昨年ヴァレンチノがバレエ・リュスをテーマにしたバッグを販売したが、今回のコレクションはそうした世界観がよりいっそう深められ、いまのファッションシーン全体に広げられたような印象を受ける。まさにアール・デコ全盛の30年代からモダニズムの萌芽する40年代への転換期のようなクールさ。いいかえれば、まさに「戦争前夜のニヒリズム」漂う趣味。歴史がもし循環するとすれば、この冗談はまったく笑えない。「魂は枯れれば枯れるほど栄える。」ーわたしのなかでこんな言葉がふと思い浮かんだのも嘘ではない。
ドナルド・トランプ大統領候補の過激な発言や、ポーランドのペアタ・シェドワの首相就任、そして世界的に多発するISISによるテロ。英国ではジェレミー・コービンの労働党党首就任、それと相対する形で実現した先日のEU離脱論の勝利など、政治的な対立色があらゆる地域で次第に増してきた。日本でも安倍晋三による保守政治が5年続いており、その勢いは日増しに加速している。軍備拡張論の膨張はもはや誰にも止められない勢いだ。ーファッションはこうした世相のときに、筋肉をきゅっと引き締める。まるでこう言っているかのようだ。「わたしたちにはなんの保証もないのよ。ただ私と美の女神のほかには。」と。ー歴史が循環するという確証はどこにもないが、ファッションは普遍的な次元で確実に繰り返している。 ともかく、今回のコレクションは私にとって最高に「シック」だ。ノーム・コアとされてきたマルタン・マルジェラに、抑制してもし尽くせないような蠱惑的な派手さがにじみ出てきた。グッチは心のうちに溜め込んだ生命の不安をいちめんに発散させたような艶やかさを爆発させた。ディオールは、もう人のことを信じない、言葉を聞かないイノセントな少女みたいだ。もはや、どれも甘くはない。エレガントですらない。ーそれは「シック」なのだ。 先月の日本版ハーパース・バザー誌に、「シック」の定義を歴史から辿る記事が掲載された。シックという言葉を正しく理解しているひとはそうはいない。なぜなら「シック」という言葉には実体がないから。シックという言葉はいつも一人踊りしている。あるのは、シックの感覚、印象、ただそれだけだ。ーバザー誌の記事は、辞書の定義や雑誌や書籍における用法、デザイナーの提案を時系列に辿る。 ー「シックの語源」は、「法的な言い逃れ、詭弁」を意味する古代フランス語だとする説と、「技術または分 別」を意味するドイツ語「stick」とする説があるらしい。 ー1856年、ギュスターヴ・フローベルが「ボヴァリー夫人」のなかで「スタイリッシュ でブルジョワから程遠いものを意味するパリジャンの俗語「chicard」を使用。 ー1860年はじめてオックスフォード英語辞典に「chic」という語が登場する。 ー1887年には「ランチを食べる女性」はシックだという認識が人々の間に広まった。 ・・・などなど。 しかし、この年表を辿ってゆくと、ちょうど戦間期にさしかかったころから、ある特徴を 帯びるようになってゆくことがわかる。 特に注目すべきは、このふたつの項目だ。 ー1938年、早くからクリストバル・バレンシアガの才能に注目していた『ハーパーズ バザー』は、1938年の号で、「バレンシアガは『(装飾を)排除することはchicである』という法律を厳守している」と書いている。 ー1966年、「Chic」の語源であるフランス語ルーツが見直された時代。イヴ・サンローランは「Le Smoking(ル・スモーキング)タキシードスーツ」を作ることでchicとは何かを再定義。女性のミニマルスタイルのパイオニアとなり、アンドロジナスなスタイルにおける「chicさ」を追求した。 こうしてみると、どうやらシックという言葉は「装飾を排除した」「ミニマルな」スタイルのニュアンスをふくんで用いられることが多いらしい。私もそのイメージにかなり同意する。 ーそれは控えめで、成熟していて、コミュニケーションの苦手な、中性的な存在のよう。何事にも挑戦的で、反抗的。しかし、彼らは心の中でその反抗心とせめぎ合い、けして軽はずみに行動に移したりせず、じっくりと果実の熟れるときを待って様子を伺う。シックなひとたちは、とても気取っていて近寄りがたい。なにか意見を言うと、すぐにそこから距離を取ろうとする。とっても気難しい存在。・・・一見するとけして派手ではない。むしろ地味すぎるほど地味だ。しかし、それはなにか不可思議なパワーのあるオーラを発している。そのオーラは、ときにエレガンスよりも強い派手な印象を人々に与える。しかしそれは言葉に表しがたい、むしろ言葉に表してはいけないような、そんな派手さなのだ。 これはまさにミニマリズムの特徴とも合致する。なぜミニマリストたちが、「削ぎ落とさなければ」ならないか?もちろん彼らがケチだからでも、シャイだからでもない。ーこの美学は華道、茶道といった禅仏教の影響を受けた日本文化にも似ている。私が思うに、削ぎ落とす理由は、ただ「それが美しいから」なのだ。そして、その美しさを知る自分自身もまた美しい存在になりうると信じているからではないだろうか。ミニマリズムは自己目的化された芸術至上主義だ。そして彼らは、とってもセンシティブな宗教家だ。 対して、エレガントという言葉はとてもマキシマムな響きを持っている。金やシルクなど、華美な装飾で着飾ったシヴァの女王のようなエキゾチックな女。そうだ、それはまさにある意味で女性的で貴族風だ。ーちょうど、クリムトの描く愛人、アデーレ・ブロッホ・バウアーの肖像画のように。言い換えれば冗長的。積極的にものをいう自己主張の強い趣味こそ、エレガントだと私には思える。彼らは宗教を形式のことだと考えている現実主義者。彼らの舞台はまさにこの現世であり、世俗的なヒエラルキーこそが彼らの生活の中心だ。わたしの目から見れば、とってもわかりやすい。そしてそのわかりやすさこそ、彼らの魅力であり、武器である。まばゆいばかりの明るさ。セクシーなきらめき。エレガントはとっても陽気だ。 さて、21世紀の「フラッパー」たち、たとえば、ビヨンセや、ブリトニー・スピアーズや、エリー・ゴールディングのような人たち。彼女たちの明るい乱痴気騒ぎがひと段落しようとし始めているようにわたしの目には映る。そしていっぽうで、パステル・ピンクのスイートな魅力をふりまいていた女性たちは、次第にヴィヴィッドな赤い口紅をためらわないようになってきた。最近のレディー・ガガは、とってもシックじゃないか? 2016年は、とってもシリアスな年号だ。多くの人が、この世でないどこかへの強い欲望を感じながら生活しはじめている。ーそれは政治的信念や社会的環境とはあまりかかわりがないようにわたしは思う。もっと抽象的な、宇宙を包み込むようななにかが、人々にいいようのない不安と欲望を感じさせているようだ。しかしそのムードには、人間を大人らしい「成熟」へと誘う、言いようのない魅力に満ちあふれていることも事実だ。それはたしかに「とてつもない大きななにか」から強いられているにすぎない。ーしかし、いったんそれを受け入れてしまえば、きっとそれはとっても魅力的であるにちがいない。わたしには、そう感じられる。 マレーネ・ディートリッヒやハンフリー・ボガードといった俳優たち。 70年前の暗黒ムードのなかで、彼らこそまさに「シック」を演じ尽くした人物だった。
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