長い人類の歴史の中で、美しくなるために人々はなにを探し求めたてきただろう?ーお金。幸福。素敵な恋人。快楽はすべて人々を美しくするものだと人間は思い込みたがる。ー快楽は少なくとも善ではない。真実ではない。ー善。真実。こうしたものを好む、禁欲的な禅僧のような種類の人間たちは、明らかに美を「美容」とは異なるなにか別なものと捉えていた。ここでいう美とは、もっと悪魔的な何かである。自らを制するだけにとどまらず、この世のありとあらゆる種類の魂を制するような、普遍的な美のことである。いやそれはいっそ普遍的でさえなくてもよい。もっと刹那的で感情に訴えかけるような、すなわち書物の裏側に隠された深遠な何かである。美の追求者は神秘主義者である。多くの感覚的な神秘主義たちにとって、美とは言葉の外に追いやられた宇宙の裏側である。
さて、そんな人々にとって、美はどのようにして手に入れるべきものであったか。一切の論理的な作用の過程がひた隠しにされ、ただ一瞬のうちに、あるいはもっと厳密に言えば、「比較的短時間のうちに」美が手に入る方法。ーそれは端的に言えば薬である。ー薬。ディズニーの生み出した魔女たちがひらすら巨大なスプーンでかき回しているあの紫色の液体こそ、美へ到達する想像上の最短経路である。古今東西、さまざまな薬が美容のために供されてきたことは誰もが知るところであろう。それは世にも珍しい食品であったり、気味の悪い薬品であったりしたが、いずれにしてももっとも留意すべき点は、薬そのものが持つ薬理的作用と、薬に望みをかける人間の完全なる虚構ーあまりにもむなしい幻想ーが渾然一体となってその者のうちに発現するという点である。 現代のファッション誌が繰り返し人々に訴えかける美容の方法は、たとえそれが薬品でないにしても、いつも薬という形をとって現れる。つまりファッション・エディターたちが紹介するものは魔法をかけられた世にも不思議な対象である。実際、現代のファッション誌にとって、洋服は添え物にすぎない。洋服の魔法はその効能の誰にでもそれとわかる顕在性ゆえにその価値を減じられる。むしろファッション誌がもっとも熱をこめて訴えかけてくるものとは、社会科学と自然科学の両方の科学のロジックのうえに築いた、途方もなく狂気を帯びたーまるでノイシュヴァンシュタイン城のようなー幻想の建築物である。・・・肌を20年若返らせる不思議な液体、まるで女神のような風貌をつくり上げる魔法の粉末や人工的製品、人々を羨ませてやまない香りを放つ黄金色の水、・・・それらはすべて美しい演出の施された薬品にちがいない。我々は美への憧憬から、知らずしらずのうちに魔法の薬品を手に取る。 ファッションフリークたちにとって、化学式や被験体に施された実験の確証性は、薬の効能を知るうえであまり重要ではない。むしろファッション雑誌では、薬の効能はいつもあやしげで魅惑的な数多の隠喩を動員して説明される。いったい美容薬の効能とは何を指すのだろうか?ある朝目が覚めてふと鏡を覗いたら、20年前の自分に戻っていることだろうか?あるいはまったく別の誰かに変身していること?ー日本の「浦島太郎」の伝説が本当だったなら、その逆の薬だって作れるかもしれない。ーしかし実際には、美容薬の効能は鏡の前に立った自分の見た目にではなく、鏡の前でそっと指を触れた自分の皮膚と皮膚の接触の感覚から訪れる。もしその薬品に効能があるなら、その感覚はまちがいなく心地よい。ー美ではない。美の感覚だ。言い知れぬ快楽だ。ー我々は指を触れた時にあらわれる、いいようもない陶酔的快楽から、それが美であることをはじめて知るのである。 なめらかな肌はけして「見る」ことができないし、魅惑的な香りは「嗅がなければ」けしてわからない。目に見える美しさはなんと脆いことか。唯一うつくしいのは、刹那的な主観的感覚、その快楽のほかにない。考えてもみよう。美から快楽の感覚を取り除くと、いったい何が残るのだろうか?見た目の美しさは、そこから何を感じさせるだろうか?感じるということは、身体性のそれである。他者との接触の身体性の感覚を、自分の体に「身にまとう」ことで意識させる、その屈折した二重の身体性こそ、ファッションの美である。 それにしてもこの薬というものは、本質をその麻薬的な性質に依存している。麻薬は、魔法だ。なぜならその効能、すなわち快楽と陶酔へ至る全てのアプローチがひた隠しにされるからである。われわれにとって皮膚の内側で起こることのすべてはおおよそリアルなものではない。内側はいつも暗く、自らの手では如何ともしがたい生理的な秩序で臓器が運動している。それは永遠に「隠されたもの」である。それがリアルになることは絶対にない。ーまさに手品箱の内側のように。ー麻薬は、いっさいの種あかしなしに人間を刹那的な快楽に導くことができるゆえに人々の心を惹きつける。それはまさに、美の薬の作用とまったく同じ仕掛けだ。美の薬は、人間にーとりわけ美の魅惑に取り憑かれたあわれな人間たちにーいっさいの種明かしなしで刹那的な快楽をもたらすことを約束するゆえに、人々を惹きつける。 「誰のために美しくなるのか?」という問いへのファッションフリークたちの答えはきわめて明白である。それは売り物として社会に晒されるべき存在としての、かけがえのない自分のためにである。しかし、「『何のために』美しくなるのか」という問いの答えには、ファッションフリークたちでさえも首をかしげる。「何のために?」ーオスカー・ワイルドは芸術が芸術のために存在するのだと説明したが、美についてはわれわれはそんなトートロジーをもって説明することはけしてできない。なぜなら美は、それがいかなる機能も存しないことこそがその成立の要件だからである。美には美しいということのほかにいかなる機能も存在しない。そればかりか、美は空間や時間といった宇宙の基本的構造のほかに、いかなる条件からも独立して成立しているのだ。・・・そうだ、だがもし。・・・もし美というものが「薬が生み出す幻覚作用」だとするのなら、ためらいもなく答えることができるだろう。それは「現在」のためにここにあるのだと。 薬がわれわれの身体にもたらす美的機能とは、まさにこの「私」が、ただ、いまこの「現在」にある限り、真に美しいのだという幻想的確信を抱かせるまさにその陶酔的感覚以外の何物でもありえない。ゆえにファッションにとって「現在」は尊く、また「現在」以外のなにものも尊くはなりえないのである。かくして数知れぬあわれなファッション・フリークどもは、現在のために法外な代価を支払って、幻想の薬に手を染めつづげる。
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