あなたはクオリティスト?それともクオンティティスト?
こんな質問をうけたことがあるだろうか? わたしはこの質問をファッションが好きなすべての人たちにいちどきいてみたい。 たとえば牛丼の大盛りとラーメン屋で替え玉3つが生きがいの愛食家さん。150グラムのステーキより250グラムのステーキのほうが絶対価値が高いと彼は考える。いっぽうで築地から今朝送られたばかりのウニと、フランス、ブルゴーニュ産の白ワインにしか目がない美食家さんがいる。彼にとってミシュランの星は食の価値を決める、とっても大切な基準だ。 量が大切か、質が大切か? この選択に迫られることは実は日常生活でとても多いようにわたしには思われる。そして、この判断はその人の「ファッション」の価値観や選択の基準を知るうえで結構大切なキーポイントだ。H&MやZARAで5000円以内の洋服を8着買うのも、一つの選択。百貨店で4万円のアウトフィットを1着買うのもまたひとつの選択。そのいっぽうで4万円のドレスシャツたった一枚をプラダで購入する人もどこかにきっといる。 どこかのクオンティティストが「大してお金持ちでもないのに、あの子は4万円のシャツを奮発したんだって?」と眉をしかめる。いっぽうでバーニーズ・ニューヨークで2時間洋服を「冷やかして」きたクオリティストの2人連れが、「最近のファストファッションの服って、すっごくトレンドに敏感だけど、色落ちしたり、糸がほづけてしまったり、長持ちしないから結局もったいないんだよね」と、これまた眉をしかめる。そんなことを言ってるクオリティストだって、財布とにらめっこをして結局ファストファッションで済ますなんてこともあるし、クオンティティストだって素敵なひとと友人の結婚式で会うなんて言ったら、ワードローブの奥に眠っていたアルマーニのシャツなんかひっぱりだしてくることだってある。 量だけでやっていける?質だけでやっていける?ー日常生活では、量と質はどこかでバランスをとらなきゃ、とうていやっていけないことがほとんど。クオリティストだの、クオンティティストだのとはなかなかいってられない。コンビニの棚をよくみていると、肉や魚よりもご飯やパンのほうがずっと多いし、しかもずっと安いよね。あたりまえのことだけれど、クオリティを選択するというのは、いつでもずっと高くつくことなのだ。 ところで、今日わたしがお話しする「クオンティティズム」の話は、そういった日常生活で直面する経済的な問題とは一切関係がない。美学としての「クオンティティズム」のはなしだ。 *** 最近ではファッションの話といえば、めっきり洋服の領域は隅へ追いやられてしまって、コスメティクスやフレグランス、ダイエットやワークアウトの話が主流だ。ファッションはどんどん皮膚のほうへと向かっている。近未来には体それ自体がファッションになると予言するデザイナーだっているらしい。いまファッション雑誌は美しい服の話ではなくて、美しい体の話を取り上げることに必死だ。 ワークアウトで手に入れられた美しい体がファッションの一部だとしよう。それは自己表現のために鍛え上げられ、おなじくらいに(おそらくはもっとそれ以上に)ひとを「魅了する」ために鍛え上げられる。それによってジムのサービスが消費され、ヘルシーな食品や、サプリメントや、薬が消費され、それでも満足できない人たちによって整形技術が消費される。現代には、被服産業と同じように、「美しい体を売る」産業がしっかりと形成され、機能しているのだ。 「美しい体」というと、たいていは筋肉質な男性や細身の男性、スレンダーな女性とかグラマラスな女性みたいに、典型的ないくつかの理想型がぱっと思い浮かぶ。だけど、もちろん実際には生まれながらの体つきや、体型の好みがあるから、そうした条件を考慮すれば、微妙に異なる実に多様な体のありかたと、その「需要」があるということは想像がつく。そうなると、これは洋服同様、さまざまなテキスチャをもつ一種の「被服」だといってもいいだろう。好みの服を選ぶように、好みの体を選ぶ。もちろん、好みの服が必ずしも似合うとは限らない。そこで、自分に合った服を選ぶように、自分に合った体を選ぶ。 しかし、実際にはそんなに理想通りにはいかない。誰もが自由にからだを作り上げられるわけでもなければ、そもそもそんなことを望んでいる人なんてそれほど多くないんじゃないだろうか。多くの人は「男らしさ」「女らしさ」といった、「典型像」を求めて、無関心にワークアウトをはじめてしまっているんじゃないかと私は思う。 わざわざいうまでもないかもしれないが、ワークアウトの結果作り出される体型というのは、男性と女性ではやはり大きく異なる場合が多い。ワークアウトで得られる体というのは、いずれにしても「ひきしまった」体ではあるにちがいないが、脂肪の燃焼と筋肉の発達のメカニズムに準じて最終的に「導き出される」のは、結局その性別に固有の骨格や体のラインでしかない、ということになりはしないか? たとえば、男性の場合は、筋肉によってがっしりと太くなった腕や足、立体感のある厚い胸、くびれのできた腹筋によって強調される細い腹部が導き出されることになるだろう。いっぽうで女性の場合には、ウェストのラインにくびれが生まれ、それによってチェストを中心とするトルソーが強調されるほか、腕や足のラインがシャープに研ぎ澄まされた体型が導き出されることになるだろう。もちろん個人差はあるから、実際には多様な体型が導きだされるにちがいない。とはいっても、たとえばあなたが性差の違いを乗り越えて、好きな体型をほしいままにしようと思っているのだとしたら、それはけして一筋縄ではいかない。 そもそも、人々が追い求める体型には大きな偏りがあることは否定できない。その王道とも言えるのが「男らしい体型」と「女らしい体型」というふたつの「範型」である。トムボーイのようなテイストの女性は決して少なくないだろうけど、世の中の多くの女性たちはグラマラスなボディラインを作るために、ワークアウトに勤しんでいるんじゃないだろうか。いっぽうでワークアウトをする男性の多くは「男らしくなること」に目標を置いている場合が圧倒的だ。サンローランのランウェイや「i-D」の特集で見かけるような男性は、少なくともワークアウトの世界ではむしろ少数派だろう。 ポルノグラフィーやティーン向け雑誌に自信を持ってあらわれる筋肉質な男性と、グラマラスな女性たち。もちろんそうした「範型」はファッション雑誌でもいやというほど目にすることができる。かれらの体型はどうしてあれほど似通っているのだろう。私はときどきそう思ってしまう。ーたとえば、映画「アメリカン・ビューティー」の主人公のように豊胸手術について深刻に悩む少女や、若い女の子にモテたいがために「男らしい体つき」を目指して、ガレージでこっそり隠れてひたすらバーベルをあげる父親。こうしたたぐいの「男らしさ」や「女らしさ」への挑戦は、まるでモノの価値を札束の厚みに置き換えて考えるときのように、身体的な美を「量塊的な大きさ」に変換して、ほかのものと比較してしまっている。 体をファッションと考えるとき。そこにもやはり、量や大きさにとらわれた「クオンティティズム」が厳然と存在している。そしてこのクオンティティズムは、愛食家が過食症になったり、大量買いの性癖が買物依存症になったりするのと同じか、いや、おそらくはそれ以上にセンシティブな問題をはらんでいる。体型のクオンティティストたちは、生まれつきの身体的特徴と、一般的なジェンダー観のあいだでせめぎ合っているたくさんの問題に、否応なく直面させられるからだ。 ー先月、あるファッション・モデルが雑誌のインタビューで触れていたように、現代のティーンエイジャーたちはブラウザ越しに存在する「ポーンスター」たちの姿を意識して過ごしている、といわれている。もしそれが本当だとすれば、おそらくポーンスターたちの体型や行動は多くの若い世代の人たちに大きな影響を与えているということになるだろう。かれらはある意味で「性別らしさ」の範型の役割を果たしているだろうし、ティーンエイジャーたちに、「男らしさ」や「女らしさ」について悩むきっかけを与えていることになる。ーたとえかれらが演じる性別が、人間のごく限定的な活動のみを強調して取り上げてるにすぎないと分かっていたとしてもだ。体型のクオンティティズムの問題の根底には、とても複雑なジェンダーにかかわる心理がはたらいている。 ところで、クオンティティズムにもとづくワークアウトは、それほどお金がかかるというわけでもない。最低限の器具を購入すれば事たりるし、あとはできるだけ多くの「努力」と「時間」を投資することに尽きる。そして徹底的に「単純化された」目標を立てて、それをひたすら機械的に管理するだけでよい。目標と計画はアプリがほとんどたててくれる。とすると、これはとってもやりがいがあって、すぐに幸福感を感じやすい趣味のようだ。ちょっとSNSに画像を投稿でもしておけば、すぐに周りが褒めてくれるしね。 ただ、からだづくりをファッションという観点からみたとき、これはいったいどうなんだろう?ーもしファッションを「身にまとうことで美しくなる技術だ」と定義するならば、ワークアウトで作り上げるからだつきもまた、美しくなることを目的として身にまとわれることになる。もちろんそこであなたに必要とされるのは、まさにあなた自身の「美的基準」にほかならない。ーあなたにとって、「いったい何が美しく」、「どうなることが美しい」のだろう? 美しくなるということは、ただひたすらにバーベルをあげてからだを絞ることでもなければ、「体脂肪の数値」を減らし、「筋肉の量」を増長させていくことなんかではけしてないはずだ。いっぽうで、ただなにも努力せず、部屋で一日中ビデオゲームをしながらポテトチップスを食べつづけることでももちろんないだろう。美しさは「量」に還元することもできなければ、「なにもしない」ことで得られるようななまやさしいものでもない。クオリティに重点をおかないファッションなんて、そもそも存在しえない。 ーとくに男の子に多いことだけれど、自信満々に筋肉のつき具合をみせびらかしたセルフィーをプロファイルのトップにのせておくなんてことは、全然ファッショナブルじゃない。いっぽうで、胸の大きさとウェストの細さばかりを自慢した、ヨガ用のトレーナー姿の女の子のプロファイルだっていただけない。ーそれが、使い古しの寝巻きのTシャツを着て、特大サイズの袋を片手にポテトチップスをもう片方の手でめいっぱい頬張っている写真とほとんど同じだということを、私たちは知るべきだ。 クオンティティーは、美という目的に達するためのひとつの支えになるかもしれないが、それ自体が目的になってしまってはまったくつまらない。もちろん、ポーンスターたちは私たちの性的好奇心をそそるかもしれないし、ティーン向け雑誌のモデルたちは青春の甘い生活を掻き立ててくれるかもしれない。しかし、ファッションとしての「いいからだ」はもっともっと広い世界のなかでの「私」のありかたを考えることで、さらに多様なひろがりをみせる可能性がある。 ークオリティズムとクオンティティズム。そのことを頭に入れて、もう一度ワークアウトの計画を練り直してみよう。
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