カーラ・デルヴィーニュが好きだ。ターグ・ホイヤーの広告を大阪のホテルのロビー・ショップで一目見たとき、彼女の力づよい目にめずらしく強く心惹かれた。ーそうだ、目だ。目というものは「ものを言う」ものである。「目を見て話さなきゃだめよ」。よく大人たちにそう言われて育った。それもそのはず。そうでなきゃ、肝心な相手の心のうちを取り逃がしてしまうだろう。ーまたそれゆえに、人は目を見て話すのが怖くてしょうがないのだけれど。人の心のうちなど、ときにはみたくないこともある。だからこそ、シャイな人たちは人の目を見て話すことをためらうのだ。どんなポートレイトの場合でもそうだが、私はカーラのターグ・ホイヤーの広告を見て思う。ー彼女はいったい何を考えているか?ーそれはいつも目が物語っている。そしてそれこそがまさに、そのひとのひととなりの正確な一断片なのだ。目は口以上にものをいうからね。・・・ところが不思議なことに、目の物語っているものを我々は言葉にできない。はっきりと言葉にする「以上に」伝わっているのに。
幸いなことに、私はよく目を褒められる。ーある晩、とても風変わりな映画監督に目を褒められたことをいまでも覚えている。それはとても印象的な褒め方で、どうしても忘れられない。それ以来、私は自分の目に自信を持っている。・・・彼はこう言うのだ。ー「瞳を構成する成分と、脳を構成する成分はちょうど同じなんだ。だから、いい目を持っている人間は、いい頭を持ってるにちがいない。」・・・本当かどうか知らないが、これは大発見だ。私が目を褒められる理由が脳にあるなんて。そしてそれが本当だとしたら、目の美しさを言葉にできない理由も容易に理解できる。その人の脳のすべてを簡単に説明できるとしたら、この世の中はなんてつまらないだろう? 人間の脳はとても複雑にできている。言葉はその脳のなかみを再現するが、言語によって再現できる範囲なんてほんのごくわずかでしかない。こういってよければ、それは氷山の一角だ。ちょうど虹の色は7色なのではなくて、7色の基本色を含んだ、スペクトラム状にできているのと似ている。ある主張をしようと思ったら、われわれは多くのことを犠牲にする。そういう視野に立ってみると、人間のアイデンティティーなんて、しょせん処世術のためのでっちあげかもしれない。いやな仕事も食うためにはする動物だ。いやな自分だってサバイバルのためにはでっちあげてしまう。好きな自分だって、結局は本当の自分かどうかあやしいものだ。残念なことに、人間は自分自身でさえ容易に騙しこむことさえできてしまう。そして言葉のほうもしばしば、人間に型にはまった社会的役割を強制するしね。 だから、映画監督の説がもし正しいとするなら、人間の目を語ることも同様にむずかしいことになる。だって、脳のなかみを言葉で表現するのが誰にだってむずかしいように、目の言っていることの真意を理解することはとてもむずかしいはずだから。もし人間が全知全能の神さまになることができるとするなら、目の暗号をすべて理解することと、その目の暗号の意味をすべて理解できる脳を持つことで、十分事足りるだろう。僕たちはいつも「目の暗号」に惑わされながら生きているのではないだろうか?そう思えば、言葉なんてあまりにも陳腐だ。 それにしても、あるひとびとの目というものはいつも人に強烈な印象を与えるよね。ヒトラーやリッベントロップのレーズンのような目は、まさに20世紀の「虚無な狂気」を喚起させる。実際にはどんな目をしていたか私にはわからないけれど。漫画のキャラクターの目もそうだ。(漫画のキャラの中でどんなタイプが好きかどうやって決める?)目の描写はアニメーションのなかでもとっても大切な要素だ。目というものは、平凡であってはならない。あまり公にはされないかもしれないが、ヒトラーの目に不可思議な共感を抱く人は実は多いように思う。きっと彼の「狂った」目になにか感じるものがあるのだろう。アール・デコのデザイン画を見てみよう。まるでオピウムで恍惚としているかのような男女がたくさん登場する。ー目はツールではない。目は、真実だ。だから目の印象の弱い人を私は信用しない。きっとつまらない脳の持ち主だろうからね。 ファッションモデルの目など、たいていはなにかによって狂っているようにしかみえない。もちろん彼らはカメラのまえでそう演じる術を知っているのだろうけど、ファッション写真の核はまさにその「憑依」した目だと僕は思っている。彼らは自信に満ち溢れていて、自分と他者の「なにか」を支配しているかのような目をしているよね。少なくともファッションにとって、自信とは「憑依」だ。あれは、きっとなにかとてつもない精神的な力がどこかから降りてきているのだろう。 とすると、写真家にとって重要なことはおそらく、ファッションモデルになにかを「憑依」するきっかけを与えてあげることと、その「憑依」した刹那的な瞬間を記録に焼き付けることだということになるだろう。その点でファッション写真は完全にフィクションだ。なぜなら人は永遠に、つねに憑依しつづけることはできないからだ。そして、そのファッション写真にあこがれてヘアサロンで髪型を注文したり、プラダやグッチでドレスを買っているファッショニスタたちは、永遠にそのフィクションの世界を追いかけ続ける。もしファッション写真に目が不在だったら、それはただ被服のカタログになってしまうだろう。誰もその魔術的な力に支配されない。ーファッショニスタは、ファッションモデルたちのとてつもない目の威力によって、永遠に神話を追いかけ続けている。 ひとめ惚れという言葉は、けして自分の目のことだけを言った言葉ではないはずだ。それは相手の目の力がなければ成立しない。自分と相手の目がぴんと通じ合ったとき、初めて成立するんだ。たとえそれがポスターのなかのカーラ・デルヴィーニュであっても。ー街の写真屋さんのおじちゃんやお客さんは、どうして目をつぶった写真をボツにするのだろうね?それは目が不在だから。ポートレイトとは、「目」の記録なのだ。目の記録というのは、ひょっとするとそのまま人物の記録を意味するような気さえしてしまう。指紋認証より、瞳孔認証のほうがクールだよね。僕は機械にすら、「目を見てくれ!」と思ってしまう。 目というものが人間の核なのだとすれば、眉がどれだけ重要な役割を果たしているのかを考えるのはたやすい。目がCEOだとすれば、眉はセクレタリーだ。彼女はとってもボスをうまくアシストして、クライアントにボスの意向を伝える。眉は単独では、きっとうまくやってゆけないだろうな。それはただの「動く線」だ。目というのは単独でも自立してやってゆけてしまうだろうけど、強弱と濃淡だけでしか表現できない、モノクロームのようなツールだ。眉は喜怒哀楽や情緒的な意思のようなものを、ボスの代わりにうまく伝えてくれる。ちょっとセクシスト的に聞こえてしまうかもしれないけれど、僕は当然色っぽい秘書のほうが好きだ。眉は公然たる代表である社長には言えない「秘密の情報」をこっそりとクライアントにほのめかすのだ。一目惚れの交渉成立のカギは、実は「眉」が握っているのだ。 だからこそ、アイブロウについて考え、大切にケアすることは、メイクアップにとって一番重要なことだと僕は考えている。アイブロウライナーのひきかたは、きっとそのひとのファッション思想の本質的な部分を如実にあらわすことになるだろう。大切なことは、眉はあくまでも目の秘書であるということ。秘書は公式にはたぶんスーツを着ているだろうし、きっと革の大きなダイアリーを片手に社長の後ろで控えめにしているだろう。もちろん秘書も会社のカジュアルなパーティーにだって出席する必要があるだろうし、社長との打ち合わせのミーティングもあるし、休日のプライベートもある。さまざまな角度から秘書の立ち位置を理解してあげることは、とっても大切なことだ。 もちろん「彼女」を執拗に飾り立てないということも、ひとつの正しい選択肢だ。スウェーデンに住む中東系の友人はアイブロウライナーなど一度もひいたことがないという。メイクアップに人一倍関心の強いトランスジェンダーの彼女は、3本のブラシを使い分けてファンデーションに20分以上の時間をかけるが、アイブロウライナーなどには目もくれない。彼女の意志の強い真っ黒な眉は、なにもしなくとも十分に仕事をするのだ。あとはトルコ式の美眉術をヘアサロンで月に一度受けていれば、それで秘書はクライアントの賞賛の的になる。そこから先は、目の仕事だ。もうお分かりだと思うが、目の仕事は、あなた自身の脳の仕事だ。ーあなたの人間性と思考のすべてが、あなたの目の仕事の成果のすべてを決定づけるのだから。どうか自分に正直に、正しく生きてもらうしか他に方法はないだろう。
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