ココ・シャネルには虚言癖があった。彼女は自分の過去を幾通りものパターンで綴りなおし、会う人会う人に少しずつ異なる物語をきかせた。その物語はしばしば、互いにおおきく矛盾している。彼女は自分の過去とまっすぐに向き合うことはできなかった、ーいや、むしろ、自分の過去とまっすぐに向き合いすぎたのだというべきかもしれない。それは、正直になるためにはあまりにも複雑で、辛すぎる過去であったのだろう。彼女のつらい体験は、このあとにおこるいいようのないほど甘く素敵な体験のための予兆であり、またそのために課せられた試練だった。しかし、彼女には最後まで、そのたぐいの試練が課され続け、本当の甘い生活にはついにたどり着くことができなかった。ココシャネルは、ハサミを持って闘い続ける女であり、「本当の人間」ではない。
ーなんのために闘い続けたの? ーおそらく、「本当の人間」になるために。 「本当の人間」という概念はとても厄介なしろもので、それを目指すと決めたらその時点から多くの膨大な試練がその者に課され続けることになる。その多くは想像も及ばないほどの無理難題で、神や化け物にしか解けないであろうようなおそろしいたぐいのものだ。まさしく、「人間のしろもの」ではない。しかも、さらに悪いことには、あなたは「本当の人間」になることを、あなた自身の意志で決めることはできない。ーそれは、運命が決めることなのだ。ココ・シャネルの運命ー私生児として生まれ、孤児院で育ち、ロマンティックな夢想にとり憑かれてしまったというーこの運命は、ココ自身の意志や判断のせいにすることなど、到底できないのである。 ひとは16歳やそこらのあいだには、自身の運命などろくに信じることもできない。かれらは運命のすべてをその目でしっかりと見ているにもかかわらず、それを信じること、ただそのことだけがどうしてもできないものだ。それゆえに運命を背負った頭のいい若者というのは、ただただあわれな、臆病な存在なのである。まわりのひとたちは誰もかれの運命に気づかない。それゆえに、ロマンス小説やそのほかのありとあらゆるロマンスの象徴物に自らの将来をみつめる。ーいっておくが、それはけしてフェティシズムではない。むしろ、その反対だ。なぜなら、小説の文章や、登場人物の姿や、髪型や、花の色や形や、・・・そういったことは、かれにとってなんの興味もないことだからである。むしろそういったものは不快なくらいに邪魔なものだ。ーかれはロマンスをみつめているのだ。 「ロマンスのかたち」を見つめているのではない。これから起こるべくして起こる運命、そしてその門の前にたちつくす私・・・。 ココ・シャネルの孤児院での生活での数少ない支えは、夢をみることであった。彼女はロマンス小説を貪るように読み、自分が「運命の女」であることを信仰した。「運命の女」という言葉にはふたとおりの意味がある。第一に、男の運命を変えてしまう運命を背負った女。「ファム・ファタール」だ。ファム・ファタールとは、その悪魔的な性格と容貌の魅力によって男を虜にし、「男の運命」を容易に変えてしまう「魔性の女」のことである。しかし、この「運命の女」は、けして「男の運命」を変えるからというだけの理由でそう呼ばれているわけではない。なぜなら彼女は、けして神様かなにかのように、みずから意志して男の運命を変えているわけではないからだ。「自分が男の運命を自由に変えることができる」と思い込んでいる女、ーもしそんなひとがいるのだとしたら、そんな偽物の女のことを「ファム・ファタール」と呼ぶことはできない。むしろ、この場合の「運命」とは「女自身の運命」のことだと考えるべきだろう。ーつまり、もちろんこの女にもまた「この女の運命」があるということだ。ー「男の運命を変える」という運命。これこそが運命の女に課せられた試練なのだ。 ココ・シャネルはおそらく、こうした「運命」のすべてを若いころから信仰していたのだろう。彼女が孤児院で「働く女」として生きる将来のことなど、おそらく想像もしていなかっただろうが、彼女は宿命を背負った「人間」としての生き方についてぼんやりと考えることはあっただろう。宿命を背負った人間の運命はいつも、わたしを中心とする「宇宙の運命」だと言っても過言ではない。彼女は、太陽系のなかのまさに太陽そのもののような存在だ。太陽は太陽系すべてを巻き込み、その全責任を背負う。この宇宙の運命を変える出発点は、もちろん「わたし自身の運命」にある。わたしの運命を変えること。それこそ、彼女にとって一番大切なことであった。なぜなら、彼女はなにひとつ「持たずして」生まれてきたのだから。「宿命を背負って」生まれてきたのだから。「わたしの運命」を、「本当の人間」になることのうちに見出さなければならなかった。つまり、途方もない試練の数々を受けなければならなくなったのだ。 それゆえに彼女は夢を見ることをつづけたのだ。必要に迫られて。ロマンスがいつもリアルの扉を開く鍵を握っている。その意味でロマンスこそが、彼女を支え続けたのだ。 その結末は、いささか切ないものであった。ファッション・ライターのジャスティン・ピカディの著書「ココシャネル・伝説の軌跡」(栗原百代、高橋美江・訳)によると、1971年1月9日、住まいだったホテル・リッツの部屋で、シャネルが息をひきとった。晩年はセドルとよばれるモルヒネの一種を自ら注射し、不眠や憂鬱、夢遊病と密かに闘っていたといわれている。部屋を訪れ、彼女の話に耳を傾ける人は、もうごく少数に限られていた。このころのシャネルは、老いの孤独を胸に、ぼんやりと化粧台の椅子に座って、窓の外の、庭の栗の木を長いあいだじっと眺めていたという。ある日、シャネルは部屋を訪れた友人の精神分析医、クロード・ドレにこう語ったという。 ー「独りで生きるものじゃないわね」 ー「間違いだわ。自分の人生は自分で創らなきゃいけないと思ってたけど、間違っていた わ」 ・・・マドモワゼル、あなたは決して間違ってなどいなかった!あなたが自分の人生をみずから創らずにいることなど、果たしてできたとでもお考えなのだろうか?たしかに彼女の人生は、誰でもない彼女の手によって強靭に作り上げられてきたのだ。しかし、そうさせたのはけして彼女自身ではない。断じてちがう!ーそれは運命の仕業なのだ。 そうとなると、ふと果てしのない疑問がうかんでくることを抑えることができない。 ー「われわれは運命を信仰しているのか? それとも、ただそれを遂行しているだけなのか?」 「自由意志」とはなるほど人間社会を円滑にする都合の良いアイデアには違いがないが、それは神によって与えられたのでもなければ、自然に保証された生来の権利などではない。むしろそれは、運命がわれわれに貸し与えてくれる、「サバイバルの智恵」のようなものかもしれない。運命という巨木を前にしては、自由意志の斧を持ってしなければ、まるで歯が立たないのだ。いっぽうで、まるで自由意志を「運命に逆らうための武器」のように考えている人がいるのだとしたら、それはあまりにも消極的すぎはしないか。ー運命はむしろ反対の意図をこめてわたしたちに自由意志を貸し与えているというのに。ココ・シャネルはこの「自由意志の斧」を目的通り運命のサバイバルのためにせっせと使いこなした。そして、ダブル・Cの帝国を開拓し、築き上げたのだ。そしてその斧こそ、彼女にとっての「ハサミ」だったのだ。 彼女のハサミは、ロマンスの力を借りて、リアリズムの世界を粉砕した。そして、粉砕してしまうばかりではなく、その破片を美しく型取り、組み合わせて、一着のドレスに見事に作り変えた。ーそれゆえに、シャネルの服はいつも現実主義の匂いが抜けないのである。ロマンスが現実の世界に勝利した、まさにその瞬間であった。
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