私の憧れのダイアナ・ヴリーランドはハイヒールよりローヒールのほうを好んだそうだ。その理由はハイヒールはコツコツとうるさい音がするからだそうである。ーダイアナがモデルとなった映画「ファニーフェイス」に登場するファッション雑誌「クオリティー」の編集長、マギーのイメージとは対照的だ。マギーは、ココ・シャネルさながら思いっきり背筋を張って、編集長の個室へと居丈高に行進する。まさにマーチだ。毛足の深い絨毯の敷き詰められた編集長室のなかでさえ、ハイヒールの地面を踏む音が聞こえてきそうなほどに。ハイヒールはキャリア・ウーマンの象徴である。
アーヴィング・ペンの撮影したココ・シャネルの「行進」。マギーの行進はまさにこの写真から着想を得たのではないかと思うほど、その姿はにている。いや、似ているというどころではない。シャネルの実際の行進の写真は、間違いなくそのもっと「上」をいっていると私は思う。歯を食いしばり、両手をこれ見よがしなくらいに大きく振って、まるで今から裁断バサミで人に斬りかかりにいくかのようなココ・シャネルの姿といったら、まさに敏腕なキャリア・ウーマンのそれでしかありえない。 さて。そんな50年代の「恐ろしい女たち」のイメージを覆すかのような、ダイアナのローヒール擁護論の意外さといったら。私にはカルチャーショックに近いものがあった。思わずこんな連想をする。ー彼女はどちらかというとマキシミストであり、シックというよりはケバケバしいものを好むタイプの人のようにも見える。それに、ファッションエディターの身分であっても地下鉄やバスを利用して通勤し、戦争の影響で地下鉄通勤ができなくなったらヴォーグから自宅までの苦しい徒歩通勤を平気にやってのけて、しかもその思い出をファッション偵察記かなにかのように自伝に楽しく蘇らせることができる人物である。ーダイアナの物狂おしいエネルギーはいつも、さまざまな意味の「余裕」に満ち溢れている。まるでつんとすましたプライドを嘲笑うかのように。彼女の恐ろしさは、どこかユーモラスで、エキセントリックだ。けして、ハイヒールの細い踵にだけ支えられた、痩せ我慢を糧に生きる孤独な戦士などではないのだ。ダイアナにとって、ハイヒールのプライドはけち臭い下品なもののように映ったのではないか。 ファッションとしての靴に「音」の存在が果たす意味合いはとてつもなく大きい。歩くということをもっとも意識させる感覚はおおよそ聴覚以外にはないだろう。人の存在は、まず「聴く」ことによって知らされる。ー「足どり」とは「生活」そのものだ。人間の生活は脚の方向と動きによって象徴されている。前進、後退。跳躍、忍び寄り、静止。ひとのありさまは、その足どりによってわかる。ーなにかに勝ったとき、人はひとしれず街のなかを自信満々に凱旋する。負けた時には、人目を忍んでとぼとぼと退却する。このことは、太古の昔から変わらない。 靴音はいつもリズムを刻み、そのリズムによって人は心地よくなったり不快になったりする。軽やかなステップは、人間の生活をワルツやジャズに変える。ダイアナの生きた20世紀の時代精神は、身体そのものと、その内側からのエネルギーが生み出すリズミカルな音に焦点を当てる時代だった。ータップダンスは、リズムが音楽を支配した記念すべき一大発明だ。そしてこのタップダンスによって、人々の生活そのものにリズムが誕生した。20世紀の生活はまるでタップダンスのステップを踏むようだ。足をふみならすように、人々は毎日を生きた。生活とリズムはもう切っても切り離せない関係になるまで強固に結びついた。モダニティーだ。生活はもはやメロディーではなくなった。甘い生活はひとりでは作り出せない。ー甘さには、外側からの調味料がどうしても必要だから。でもリズムなら作り出せる。それは自分自身の足によって、身体によって、そしてそれを駆動させる精神のモーターによって、自在に操作することができるのだ。 足が人間の生活を象徴するアナロジーであるとするなら、靴はそれを覆う第二の皮膚である。そしてそのなかでも「踵」は、人間の存在のすべてを人生の舞台と接触させる重要な導入部分だ。その重要性ははかり知れないほど大きい。そう考えてみれば、ハイヒール派か、ローヒール派かという問題は、人間の生き方そのものを見る上で欠かせない論点になるだろう。 私がアート・ギャラリーにはいるとき、店主は靴音で私の存在に気づく。私の靴音には、個性がある。私の歩き方は、見た目にもとても変わっているようだ。まるで飛び跳ねているような私の歩き方はいつも人の注目を集める。そのせいか私の足音はいつもリズミカルだ。まるで雪の中をうさぎが飛び跳ねているように。それに、私の靴音はとても高く、部屋の中を反響する。私はいつも、強くかかとを踏み入れる。だから私の靴はすぐにかかとがすり減る。私は自分の靴音には人一倍こだわりがあるつもりだ。ーちょっとまえまで、大抵の靴のかかとには馬蹄型の金具を装着していた。これをつけると靴音はよりはっきりとリズムを刻み、高らかに周辺に反響する。まるで「私が歩いているんだぞ」と言っているみたいに。私にとって靴の音は私の存在そのものなのだ。それは存在の記号であり、象徴である。歩いている靴の音がしないと、私はまるでこの世からかき消されてしまったみたいだ。 軍人という職業の男たちは、おおく似たような趣味を持っているようだ。軍隊の行進を象徴するものはなにか? 間違いなく靴の音に違いない。「軍靴の音の忍び寄る不気味さ」とは、まさに軍人という存在が、次第に社会と我々の意識の中に強引に介入してくるありさまを示した表現だ。太宰治の小説の中で、軍靴の底に鉛の金具を装着する伊達男の将校の描写が出てくる。彼は自分の存在をブーツの踵に賭ける。軍靴の音はまさに軍人の証。軍靴から靴音を取り去ったら、いったい何が残るだろうか?彼らの存在は強くふみならす足音に象徴されているのだ。ーまさにハイヒールと同じだ。両者は、「踏む」ということのために存在している。たしかにタップシューズもそうだが、あくまで実用的な目的で地面を踏むためにつくられているにすぎない。しかし軍靴とハイヒールはちがう。それらはともにサディスティックな心理とつよく結びついている。踏むこと。踏みつけること。彼ら、彼女たちは、なにかを踏みつけたくてしかたがない。 踏みつける音とフォルムがなぜこれほどに人の心を惹きつけるかという疑問は、まさにファッションという現象の疑問と同じところに答えがある。ファッションが「排他性」にその拠り所をもつことは、いかに美辞麗句を並べてファッションを讃えたにしても、どうしても否定できない事実だ。ファッションを意地の悪い視点で見たとき、それは「嫉妬」と「プライド」と「征服欲」に満ち溢れている。その背景にはいつも、コンプレックスに苛まれた弱い人間の姿がある。まるで軍人と同じだ。ーもし、ダイアナが絶世の美人に生まれていたのなら、あれほどの伝説的ファッショニスタにはならずに人々を楽しませる人形のような存在にとどまっていたであろう。・・・身に纏うことが、軍人とファッショニスタの両方を強くするのだ。 ーしかし、ファッショニスタたちはその病的な心理をきわめて美的な方法で克服することを忘れてはいけない。ファッションはたしかにクリエーションのなかではもっとも保守的なジャンルだが、同時にいつもディオニュソス的だ。ファッションは造形というよりも、むしろ現在なのだ。「必要なことは、現在をいかに美しく、いかに心地よく生きるかなのよ」とファッショニスタたちはいつも言いたがる。ーハイヒールで地面を踏みつけるとき、そこになんの目的があるのか?・・・おそらくはその踏みつけることがもたらす快楽のそれ以上に、なんの意味ももたないだろう。 あらためて考えてみると、ダイアナのローヒール擁護論は、同時に反ハイヒール論でもありうる。 彼女にとって、ハイヒールはシックでも、エレガントでもないのかもしれない。どちらかというと「悪趣味」なのかも。ーだって、人はさりげなく現れて、さりげなく去ってゆくほうがいくぶんかスマートではないか?ハイヒールの音で存在を主張するなんて、まるでこれ見よがしに足をばたばたと踏み鳴らす駄々っ子みたいじゃないか?ーそんな主張があっても悪くはない。彼女が反ハイヒール論を唱えるとき。・・・それは「踏みつけること」の無目的で倒錯した趣味からの離脱のときであり、より充足したひとつ上の世界の住人として、悪趣味なサディズムと自己肯定の方法に反論を唱えるときなのではないか。
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